牧仕ブログ

信じて救われることと幸せに生きることが一致しない

「信じているのに大変なままです。」

「信じているのに毎日が辛いです。」

こんな相談が後を断ちません。救われることと日常生活が幸せになることは必ずしも一致しません。

そういえば、私も信じていても辛い時はたくさんありました。そして、どこかで勘違いしていました。

ちゃんと信じていると毎日がハッピーで、喜びに溢れて過ごせると思っている人は多いのかもしれません。そして、ちゃんと信じきれていないから幸せになりきれないと思っている方も多いのかもしれません。

これは、聖書の救いや信仰を誤解して受け取っているからだと思います。かくいうわたしも、信仰心が強ければ何でもうまくいく。逆に上手くいかなかいときは祈りが足りず、信仰が足りないと思っていました。

少し整理して考えてみます。

聖書が教える「救い」は私たち人間の努力や生き方は何も必要ないと言っています。私が救われるために頑張ってくれたのはイエスさまです。神様からのプレゼントとして信仰が与えられ、神の恵みによって私たちは救われるのです。

では、救われたら幸せなのでしょうか。結論からいえば、必ずしもそうではありません。

例えば、聖書に出てくるパウロという人を考えてみます。彼は救われ幸せであったと思います。その後の人生も、キリストを伝えることに狂っていきました。当初は同じクリスチャンからは仲間はずれにされたり、イエスキリストの福音を伝えまくった結果、逮捕されたりと波瀾万丈でした。パウロは幸せであったと思いますが、現代の私たちから見てパウロのような人生が最高の幸せだから自分も歩みたいという人は多くないと思います。

つまるところ、幸せというのはその人の主観だといえます。

神を信じた後も生き方は自由に選ぶことが出来ます。極論をいえば、人を騙して生きることも出来、人に暴力を振るいながら生きることも出来ます。幸せでない生き方を選ぶことが出来ます。これだけ考えても信じること幸せは必ずしも一致しないことが分かると思います。

改めて聖書を読んでみると、聖書にはオススメの生き方が書かれています。神を愛し、身近な人を愛し、時には人を赦し、お金の使い方を大切にしたりと様々なことを教えてくれます。

私自身の体験ですが、このように生きることを選ぶ中で、少しずつ変わってきた気がします。また、自分を満たそうと生きることよりも、他者を満たそうと生きる方が幸せだということがようやく分かってきました。

しかし、〇〇をするから幸せになるとも必ずしもいえません。でも、幸せだと感じる可能性は上がっていくのではないでしょうか。

現代の私たち以上に、抑圧されて生きていた時代の人たちはこんなことを考えることもなくただひたすらに神の助けと平安を求めていたのかもしれません。しかし、時代が変わっても何かに抑圧されて、どうしても幸せを感じられないことがあるのも頷けます。

神さまが私を愛してくださる。この事実を深く噛み締めながら生きる時に、私たちは神の愛に応えたいと思うようになるのかもしれません。

この前、会いに行った方が言っていました。

「今までたくさんの人に助けてもらったことは神様の恵みです。これからは自分も誰かのために生きていきたいと思いました。」

この話を聞きながら、まずはたくさんの愛情を受けることが必要だと思いました。そして、このような心が与えられ、生き方を変えたいと思う人が増えることを願っていきたいとも思いました。そのために私が出来ることは、出会う人を大切にしようとする生き方を選ぶことです。