牧仕ブログ

賜物は自慢するためではなく、人を喜ばせるために使う

聖書には賜物(たまもの)という言葉が出てきます。神様がプレゼントとして与えてくれたものです。能力やスキルと混同されて考えられることも多いと思います。

クリスチャン同士でも「私には賛美の賜物がある」とか「あなたはメッセージの賜物がある」という言い方をしたりします。ただ、少し前まで私はこの言葉の意味が、理解しきれませんでした。能力があることを、神様が与えた賜物だという風に聞こえてしまうからです。私がひねくれているだけかもしれませんが。

例えば、話が上手な人がいたとします。

しかし、その上手な話術を使って人をおとしめたり、騙すことに使っていたらどうでしょうか。それを賜物と表現することはできるでしょうか。出来ないと思います。

逆に話が上手な人が、相手を褒めるために話術を使うのは、どうでしょうか。相手も喜ぶと思います。それは素晴らしいことです。

賜物というのは、持っている「何か」で相手を喜ばせることだと思います。どんなに優れた能力を持っていようとも、使い方を間違えれば毒になります。しかし、相手を喜ばせるということが出来たらそれはすばらしい使い方だと思います。

聖書の中で貧しいやもめ(未亡人)が出てきます。持っているわずかな財産全てを神様にささげました。それは、本人が一番したいことであったからこそ神は褒めました。

自分が持っているものをどう使うのか。

賜物は誰かを喜ばせるために使う時に初めて「賜物」になるのだと思います。

神様から賜った物として、この人生があります。環境があります。家族があります。お金があります。積み重ねたスキルや考え方があります。どれも神様がくださったものです。持っているものを出会った人が喜ぶために使っていきたいと思いました。