私の活動は宗教問わず誰にでも会いに行くことです。多くは日本的な無宗教の方で、たまにキリスト教以外の宗教を持っている人です。クリスチャンや聖書に興味を持った人からの連絡もそこそこあります。
こんなにも聖書が自由に読め、本もたくさんあり、YouTubeなどでいつでも自由に聖書やキリストの福音に触れることができる時代は未だかつてなかったのではないだろうか。いわゆる“独学“でキリストの福音に触れ信じた方もたくさんいます。
そんな現代を生きる私たちにとって、直接人と会い、話すということにはどんな意味があるのでしょうか。
それは、自分の想い・価値観・考え・信仰のことなどを話し受け止めてくれることを願っているのではないだろうか。私に連絡をくれた人の話を聞いてみると、教会にも行ったのですがなかなか牧師と話をする機会がありませんでした。もちろん、話す機会がなかった理由は様々だろう。
そもそも牧師という役割は聖書を語り神様を伝えることをしてきた。それは昔も今も変わらない。ただ、求められる牧師像は変わってきています。
キリストの福音を教えてくれる人よりも、自分の話を聞いて、考えを受け止めてくれる人を求めているのではないか。私が出会う人にそんな方がたまたま多いだけなのかもしれない。だけど、そんな経験から思うことがある。
会いに行く教会を始める以前の牧師としての自分とずいぶん変わったと思う。私は自分が語る聖書の話を聞いてもらいたくてしょうがなかった。出会う人も自分の話を聞いて欲しかった。互いに話したい人どうしだったのでミスマッチだったと思う。
上手に話すことや伝えることは二の次で、一生懸命に目の前の人の話を聞くことこそが求められている役割だと思う。
少なくとも私はそんな人になりたいなと思っている。