牧仕ブログ

話を聞くということは、話し手の存在を受け入れること

以前、会いに行った方の話を書きます。

私自身が聞き手として、一番辛いと感じた人でした。一言目に、「あなたは知らないと思うのでどこまで話していいかわかりません」、そのように話し始めました。話の最初から突き放され、聞き手として大変苦しみながら聞き始めました。

終始、「お前には理解できない。でも聞いてくれ。」と言う態度で話されたのは珍しい体験でした。そして、「どこにも誰にも相談できないのが辛い」ということを言っていました。しかし、この言葉の意味を図りかねていました。

自分が話せる相手がいない。色んな方に話したけど、理解されず、もう誰にも話せない。そもそも話せる相手というのがいないと思ってしまっている。色んな感情が入り混じっているという感じでした。

ぁあ。きっとこの人に話したとしてもまた理解されないんだろうな。でも、もしかしたら理解してくれるかもしれない。そんな一縷の希望を持って話しているかのようでした。

久しぶりに、私は何度も何度も質問を繰り返しました。実は私が質問をすることは多くはないです。それこそ、本名を知らないこともあれば、職業を聞くこともほとんどないかもしれません。パートナーの有無なども聞くこともほとんどないかもしれません。それでも、この時は「あなたのことが知りたいので教えてください」という心のメッセージを込めて、話の中で出てくることをわからないなりに何度も聴き続けました。

話し続けること約2時間。

わかりました。

「辛い目に合っている私を誰も理解してくれない」

その方が訴えているのは、言葉に出てくるものではありませんでした。孤独ともいえる、心情そのものが訴えていることでした。

一緒に心を傷んでくれる人。この苦しみをわかってくれる人を求めていることがわかりました。2時間経って、少しだけこの方と分かり合えたと思います。

イエスさまが涙を流す方と一緒に泣いたということのありがたさが少しわかりました。