牧仕ブログ

聞くことは手段に過ぎない

聞くことについての話をすると、オープンダイアローグ、傾聴、ナラティブですねなどと言われることがあり、話した自分が首を傾げてしまうことがあります。

私は傾聴という言葉を使ったことがほとんどありません。ほとんどと書いたのは、覚えてないけど言ったことがあるかもしれないからです。傾聴というと、専門家のような、改まって相手の話を聞いてあげようみたいなイメージがどうしてもあるからです。

そんな難しい話ではなく、人と話すときに自分が話すよりも相手に話してもらうことを意識したり、アドバイスするよりはもう少し聞いてみようと思ったりそんな感じです。

聞いてあげようって姿勢よりも、この時間を相手も自分も楽しめたらそれが最高だなと思います。肉好きの人なら肉食べながら話した方がいいと思いますし、甘いもの好きならスイパラ行って話した方がいいと思います。

私がやっていることも基本的には会いに行くことだけです。その時に応じて互いに楽しむことを目標にしています。その中で聞くことを少し意識したら喜ばれることが多かったというのが実情です。聞くことが目的のこともありますが、多くの場合は手段となる気がします。話を聞いてほしいですと言われても、聞いた後は楽しく笑い合うことがもっと大切だと思います。

聞くということを難しく考えなくても、相手への思いやりがあればそれでいいのだと思います。

私は聞くことについて専門的に学んだことはほとんどありません。でも、出会いの中で必要に応えたいという思いから悩みながら、もがきながら習得していったものがいくつもあると思います。

イエスさまの生き方から教わるのは、困った人をほっておけないという憐れみの心です。何が出来るかではなく、目の前に困っている人がいるからどうにかできないかと思い悩むことがスタートなのだと思います。

憐れみとは「人の苦しみや悲しみに気づき、それを軽くしたり、和らげたいとすること」です。苦しみ悲しんでいる人を見たら、いてもたってもいられなくなることを言うのだと思います。

ここから行動を起こすことはさらにハードルが高いですが、思い悩むことがあるから行動につながることもあるのだと思います。