「愛には時差がある」。この言葉は、愛の本質を考えるうえで深い気づきを与えてくれます。私たちは、愛をその瞬間に完全に理解することができない場合があります。それは、愛がしばしば目には見えず、時には苦しみや葛藤の中に隠れているからかもしれません。愛の価値や意味を真に感じ取るには、時間という熟成が必要なのです。
たとえば、親の愛を考えてみます。幼い頃は、それがどれほど深いものであるかを実感するのは難しいものです。親が差し出してくれるもの、たとえば食事、教育、安らぎは、当然のものと感じられがちです。しかし、やがて自分が親の立場になったとき、その愛の重みと深さがようやく理解されることがあります。深夜の授乳、子どものわがままを受け入れる忍耐、未来を願う祈り。こうした日々を通して、ようやく親の愛の真価が明らかになるのです。
同じように、神の愛も人生を重ねる中で少しずつ心に響いてくるものではないでしょうか。聖書には、神が私たちを愛しておられることが何度も記されています。たとえば、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ人への手紙5章8節)という言葉は、神の愛がどれほど無条件で深いものかを示しています。しかし、イエス様を知ったばかりであれば、この愛の意味を完全に受け取るのは難しいこともあると思います。
なぜなら、神の愛は、私たちの目には不明瞭であることが多いからです。私たちの願いや計画が破れたとき、それを愛だと理解することは簡単ではありません。けれども、時間が経ち、失敗や試練の中で得られた祝福を振り返るとき、神が最善を導いてくださったと気づくことがあります。それは、愛が時を経て熟成し、初めて味わえるようになる果実のようです。
イエスが語られた放蕩息子のたとえ話は、この愛の時差を象徴的に描いています。父の愛は、息子が家を出ていくときも、彼が破滅の中で帰ってきたときも変わることがありませんでした。しかし、息子が父の愛を真に理解したのは、すべてを失い、父のもとに帰る決心をしたときでした。父の愛は常にそこにあったけれど、それを愛として受け取るには、息子自身の時間が必要だったのです。
愛を愛として受け取るためには、成熟や経験が必要です。時に、それは痛みや失敗を伴うこともあります。しかし、そのプロセスを通じて私たちは、愛の本質を知り、感謝する心を育むのです。愛には時差がある。それでも、神の愛は変わることなく私たちに注がれ続けています。その愛が、私たちの中で豊かに熟成され、他者への愛へと広がっていくことを願います。