牧仕ブログ

人の幸せを素直に喜べない時~放蕩息子の兄~

イエス・キリストが語られた有名なたとえ話、「放蕩息子のたとえ」には、父なる神の深い愛と赦しが描かれています。

物語には、ある裕福な父親と二人の息子が登場します。父親は慈愛に満ちた人物であり、息子たちは異なる性格を持っています。弟はある日、父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言います。普通なら「何を言っているんだ!」と叱られそうですが、父親は息子の要求を受け入れ、財産を二人に分けて与えました。ここにすでに父親の愛が感じられます。

財産を受け取った弟は、遠い国に旅立ち、贅沢三昧の日々を過ごします。しかし、すべてを使い果たしてしまったその時、その土地には大飢饉が起こります。困り果てた弟は、豚の世話をする仕事を得ますが、あまりの貧しさに、豚の餌すら食べたいほどでした。

ある日、弟は思い直します。「父のところでは雇い人にすら十分なパンがあるのに、自分はここで飢え死にしそうだ」と悟り、父の元に戻って謝罪しようと決心します。弟は、自分の罪を認め、父に許しを求める覚悟をしました。

弟が家に向かって歩いていると、遠くから父親が彼を見つけます。父親は感動し、走り寄って息子を抱きしめ、口づけをしました。息子が謝罪の言葉を口にするよりも先に、父親はこう言います。「いちばん良い服を着せ、指輪をはめ、肥えた子牛を屠って祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と。ここには父親の無条件の愛と赦しが表れています。

しかし、その喜びの最中に、兄の反応が描かれます。兄は畑で働いていました。日々の労働を忠実にこなす兄は、家に戻ると、いつもとは違う「音楽や踊りのざわめき」が聞こえてきました。不安や疑問を抱いた兄は、しもべに状況を確認します。すると、弟が無事に帰ってきたことを知り、父親がその喜びのあまり「肥えた子牛」を屠って祝宴を開いたと聞かされます。

兄は怒り、家に入ろうとはしませんでした。父親はその兄の心情を察し、外に出て兄をなだめようとします。兄は、自分が長年父親に忠実に仕えてきたことを訴えます。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」と不満をぶつけます。

さらに兄は、弟が放蕩の末に帰ってきたことに対しても納得できません。「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」と言い、怒りを露わにします。兄は「父の愛を受ける資格」について自分なりの基準を持っており、それが父親の愛と赦しの基準とすれ違っているのです。

父親は兄に対して「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と優しく語りかけます。父親のこの言葉には、兄がすでに失っていないものに気づかせる意図が込められています。弟の「復活」と「回復」を喜ぶことが自然だという父親の視点には、愛の深さが感じられます。

このたとえ話では、弟が罪を悔い改めて帰ってきたことを喜ぶ父親と、その赦しに納得できない兄の対比が描かれています。兄の不満は「報われなかった努力」にあるのだと思います。それが「愛と赦しの基準」とのギャップを生んでいるのです。

人の幸せを素直に喜べない時、私たちは兄の立場に共感してしまうことがあるかもしれません。努力を重ねてきた自分が評価されないのに、過ちを犯した人が祝福を受けるとき、その不公平さに心が揺れることがあるのです。しかし、この物語が示すのは、父親が持っている無条件の愛と赦しの視点です。

ちなみに、兄が怒った理由を他にも考えることができます。例えば、宴会に呼ばれなかったことかもしれません。牛肉を食べられたことかもしれません。半分冗談ではありますが、人が人に怒るときは意外にこういう時もあると思います。