〜信仰と精神疾患の間で苦しむ全ての人のために〜
以前、「自殺は病死」ではないかという記事を書いた。反響があった。自分の経験が誰かの助けになるのであればと思い、もう一回考えてみたことを書きたいと思う。前の記事はこちら👇👇
精神疾患にかかったクリチスャンの人とやり取りをした。会ったこともなく、名前も知らない人だ
信仰と精神疾患❗️
これは、とても大きな問題だ
そして、信仰への誤解から来ている問題でもあると思う。
では、どんな誤解があるのか
①信仰があるのにうつ(精神疾患)になる
②信仰を持ったときの喜びがウソのようになくなった。だから、わたしには信仰がないと絶望する。
③信仰以前に、精神疾患に対する理解が薄い。これはまわりも本人も含めて。
特に①②についてから考えてみる
①信仰があるのにうつになる
わたし自身、信仰と精神疾患との関係でとても悩んだ
信仰があるのにうつになる!
このことを受け入れることが難しかった
信仰があるのにどうしてうつになるのか
信仰はある意味で、心の平安であり、心の芯でもあり、心の強さでもあると思っていた
これは、裏を返せば信仰を持ったら精神疾患にかからないということになる
そうしたら、精神疾患にかかった人は信仰がないということになってしまう
そんなことはありえない
このことの一番の問題は無知・無理解だ❗️
今だから告白するが、当時わたしを一番傷つけていった人たちは信仰を持っている人たちだ。もっと言えば、牧師・宣教師と呼ばれる人たちだ。
「そんなことを言うのか」と驚くようなことを平気で言うのだ
「○○はするのに、△△はしない、、、自分の都合のいいことばかりする」
「怠けている」
「心が弱いからなる」
などなど
実は、その言葉自体にも傷ついた
しかしそれ以上に自分を支配していたのは、信仰があるのにうつになってはいけないと自分を責めたことだ
これは、信仰と精神疾患の問題に関する無理解からくるものである
このように言った人たちも無知であったと今では思う
もちろん、相手の立場に立とうとするのであれば、起きなかったことである
正しく聞こえることを言うことはできる
でも、本当の意味で心に寄り添ってくれた人は少なかった
信仰を持っていてもうつになる
これを認められた時から、回復のスタート地点に立てる
※ここに書いた話は事実である。但し、その人たちを責めたくて書いたわけではない。
②信仰を持ったときの喜びがウソのようになくなった。だから、わたしには信仰がないと絶望する。
まず、前提として
精神疾患の苦しみ
この苦しみは、なったことがないと理解できないかもしれない。それくらい辛く大変である。
つい1時間前までは、何ともなかったのに、いきなり自殺衝動に襲われることもある。
「昨日まではあんなに元気だったのに」と言うことは聞いたことがあるだろう。
精神的にダイレクトに苦しみが来る。
他の病気やケガと違う点がここだ
他の病気やケガは身体的な症状が先にある。その症状ゆえに精神的にも苦しくなることがある。
もう一つの前提として
キリスト教信仰
イエスキリストを信じ救われた時に、何とも言えない心の平安が与えられる。これも経験した人にはわかる。信仰を通して平安を得られることは事実だ
しかし、このような視点からだけみてしまうことによって余計に苦しんでしまう
心の喜び=信仰
のような理解がその根底にはあるのではないか
『聖書から神に出会い、もう大丈夫だ!
救われた!と感涙したのはなんだったのか…
一気に魔法が溶けたみたいに
再び元の状態に戻ってしまった…』
☝️これは、ある人が言ったこと📩
骨折をした時に痛いと感じる
だから、わかる
患部が異常を起こしていることが
うつ病になった時に、心が悲鳴をあげる
だから、わかる
人生に異常を起こしていることが
多くの信仰者が自分を傷つけてしまうことの一つは、信仰への無知
言葉を変えれば信仰への誤解ではないだろうか
病気になることは信仰が弱いからではない
これだけは、経験してはっきりと感じた
病であっても、その真ん中にはいつも神様がいる。これこそが信仰ではないかと思う
神様から見たら、全ての人が弱くはかない存在だ
そんなあなたを何があっても離さない
決して諦めない
あなたを愛している
と、言っている
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
ローマの信徒への手紙 8:31-39
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