牧仕ブログ

信仰のことについて語るときに僕の語ること

私の信仰をひと言であらわすと「イエスさま大好き」です。そんな私にも信仰の始まりの時がありました。始まりとも言える思い出の聖書の話は以下です。

夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。

マルコによる福音書 6章4751

教会に通い始めた私は、青年たちが集まる聖書を学ぶ会に参加するようになりました。そこで、水の上を歩くイエスを信じることが出来るかと聞かれました。私は「信じられる」と答えました。それまでの私はというと、神社なども含め、よく分からない神に祈るよりは自分で努力をしようと思っていました。大学一年生の時に、聖書を読み始めそこに出てくる神さまの話を知るようになりました。

信じることが出来るかという問いかけは私にとって、新鮮な問いかけでした。私の答えは信じられるでしたが、この理由は信仰心ではなく、神であるなら水の上くらい歩いて欲しい。信じる理由もなかったけど、疑う理由もなかっただけなのです。

キリスト教信仰というのは、一般的に「イエスキリストが私の罪のために十字架で死に、三日目に復活したこと」これを信じる人は救われ、永遠の命を得ることができることだと言われています。

信仰とは奥深いものであり、自分を語る時に絶対に外すことはできないものの一つです。私は、信仰をもってクリスチャンとして生き始めてから十数年の月日が経ちました。その中で信仰の価値観が少しずつ変わってきました。

また、多くの人と出会いながら、信仰という言葉の持つ意味は人それぞれ違うのかもしれないと思うようになりました。それこそ、信仰の対象であるイエスさまへの思い、そして距離感は人それぞれ異なります。

信仰を持ち始めたころを思い出してみました。自分が信じて嬉しかったので、他の人にも伝えることをしました。純粋に伝えたくなったのです。駅前で学生服を着ている中高生に話しかけてみました。「聖書にこう書いてありますが信じますか」という、いわゆる布教活動です。ほぼ100%の人が信じますと言いました。

嬉しくてこのことを同じクリスチャンの方にしました。そうすると、「すばらしいですね。でも、その後のケアが必要ですね」と返ってきました。あれ、信仰って信じることだけじゃないんだって思いました。

友だちに聖書の話を伝えてみました。今度は伝えて終わりではなく、信仰を励ますために教会組織や聖書を一緒に読むなどのケアをしました。友人は毎週のように教会に来ました。毎週のように一緒に聖書を読みました。そして、その友人は信じてクリスチャンとなりました。

もうこれで十分だろと思っていました。そしたら、さらに要求されました。今度は奉仕活動をしましょうと。あれっ。信仰生活ってけっこう大変だなと思いました。信仰を持つということはシンプルなはずなのに、そうさせてくれませんでした。

月日は流れ私の考えも変わってきました。最初の頃は何も分からなかったので、言われたことに素直に従っていました。信仰をもって生きることは喜びだったはずなのに、人や教会が様々なことを求めてくることに疑問が生じました。

今だからハッキリと言えます。信仰というのは自分のためであり、周りの人のためのものではありません。周りの人が納得する信仰の持ち方をする必要はありません。信仰はあくまでも自分とイエスさまとの個人的な関係です。

そうは言っても、人と違う生き方をすることは簡単ではありません。

会いに行くキリスト教会を始めて、2500件以上の依頼を受けました。その中でクリスチャンとなった方もたくさんいます。人生の中で一度も教会に行ったことがない人がいます。イエスキリストを信じ、クリスチャンとして生きています。このような人は一人ではありません。そのような方が数十人はいます。

その他にも、神様の愛に応えたい、どうしたらいいですかと聞いてくださる方がいました。また、本当に大変な環境の中で、立ち上がる力をくださいと祈る方がいました。どの人もすばらしい信仰者です。

信仰を持つことの意味は人それぞれ違います。また信仰の持ち方も人それぞれ違います。それでいいのです。

もう少し、信仰について語りたいと思います。今までは信仰を持つということについて書きましたが、ここからは信じる対象について語ろうと思います。と言っても、イエスキリストについて書こうとすると説明調になってしまうので、あえて関係性について語ります。

私の信仰の対象はイエス・キリストです。

大学に入ってすぐに聖書を読み始めました。イエスキリストを何者だと思うのかという問いに対する私の答えは、「キリスト教に出てくる人」というものでした。それ以上でもそれ以下でもありませんでした。今は、はっきりと大好きだと言えます。そして、みんな大好きになったらいいのにと思っています。イエスさまのファンクラブに入ったらいいのに。永久会員です。教会ってファンクラブだとも言えますね。

私はどうしてこんなにもイエスキリストのことが好きなのでしょうか。色々と言えますが、一つは、生き方が最高にかっこいいし優しいということ。もう一つは、神であるのに私のことを友だと言ってくれたこと。最後にもう一つは、命を与えてくれたことです。

そんなイエスキリストは本当に歴史上にいたのかとか、イエスキリストがどうして神だと言えるかなどの質問は私にとっては愚問です。私にとってそれは当たり前のことなのです。もちろん、私なりの理屈を説明することはできます。でも、それよりも私がいかにイエスさまのことが好きであるかがもっと大切です。好きに理屈はありません。ただその事実を大切にしたいのです。

私は「イエスさまは友だち」と思っています。でも、皆が友だちのように話しかけられるわけではないとも思います。信仰の対象であるイエスさまとの距離感や関係性は人それぞれ異なります。神様のことを友だと思うのは畏れ多いという方がいて然るべきです。

当たり前ですが、関係性や距離感が変われば、使う言葉や丁寧さも変わってきます。

それこそ家族であれば、「いつものポップコーン買っといてね」と言えば話が通じます。しかし、距離感や関係性が違えばこの様に言っても伝わりません。当たり前の話ですね。繰り返しになりますが、イエスキリストとの関係性というのは一人ひとり異なります。それがいいのだと思います。

時代や文化、また背景が変っても距離感は異なります。想像ではありますが、江戸時代の武士の家に生まれたら、「ねえねえパパ」と甘える言葉を言わず、「父上」と言ってそうですね。同じように江戸時代は神との関係性も、畏れ多い方というイメージを強くもっている気がします。

少し話は変わりますが、活動を通して出会った方で、決して忘れることが出来ない人がいます。想像を絶するほどの困難な環境にいる一人の女性の方でした。いつも困難があるたびに連絡をくれます。そしてこのように書いてあります。「神さま、私に立ち上がる力をくださいと祈っています。一緒に祈ってください。」と。その方の状況を知っているからこそ、心に迫るものがあります。

彼女が「神さま、助けてください」と祈っているのを聞いたことがありません。いつも困難に立ち向かえるように自分を強めてくださいと祈っているのです。

祈りは神との会話と言われています。人それぞれ神様との祈りの距離感が異なります。

親しげに祈る方、厳格な言葉で祈る方、おずおずと祈る方、喜び溢れて祈る方、言葉少なく祈る方、どれもステキだと思います。それぞれがイエスさまとの個別な関係を作り、祈ることが大切だと教えてくれます。

最後に信仰を持って生きることについて書くことで話を締めくくりたいと思います。クリスチャンとは生き方です。

そして、生き方とは今日のこの瞬間だけのことではありません。過去も今も、そしてここから繋がる未来も含めて基本的にはずっと続いていくものです。今が良くても、未来は大変なことがあるかもしれません。ちょっと信仰のことがわからなくなることがあるかもしれません。でも、いいんです。それが生き方だからです。

現実の出来事、置かれた環境、自分の感情などで信仰のあり方も影響を受けます。でもいいんです。それが生き方だからです。

どこか人生の一つのエピソードを切り取って、あの人はすごいと言ったことを耳にします。聖書の人物でもそのように思えてしまうことがあります。アブラハムが息子イサクをささげる話、少年ダビデが巨人ゴリアテを石で倒す話、最初の殉教者と呼ばれるステファノが亡くなる話など様々あります。

しかし、聖書にはそれ以上にたくさん書かれている話があります。それは神と共に歩む中で過ちや失敗を繰り返しながらも人として信仰者として成熟していく姿です。アブラハムしかり、モーセしかり、ダビデしかりです。

イエスさまと共に生きる私の信仰の日々は、良いこともあればそうでないこともあります。私は信仰を持ったがゆえに、家族との関係が一時おかしくなったことがあります。信仰を持ったがゆえにうつ病になりました。それでも、信仰を持ったことを一度として後悔したことはありません。生きている限り、様々なことが起きます。それでいいのです。これからも、イエスさまと共に生きる日々を大切に積み重ねて生きたいと心から願っています。

私には目指したい生き方があります。それは、イエスキリストの生き方です。決して、私は良い人になりたいわけではありません。でも、イエスキリストが生きたような生き方をしてみたいのです。何を感じ、何を思っていたのか、なぜそこまでして人と関わろうとしてくれたのかを知りたいのです。このように生きることで、イエスさまの愛の深さを少しでも知ることが出来たら嬉しいです。

神さまは私たちを一人で生きていけないように造ったような気がします。互いに愛し合いなさいという教えの言葉が聖書に書かれているように、助け合い、励まし合い、迷惑をかけ合いながら生きるようにされたのだと思います。嬉しいことがあれば一緒に喜び、大変なことがあれば一緒にオロオロしたり悲しんだりします。また、妬んだりもします。

信仰があるからといって、完全に正しく生きれるわけではありません。でも、信仰があるとイエスさまのように優しく、そしてたくましく生きたいと思わされます。それが、嬉しいのです。