牧仕ブログ

神が強要しなかったことを人は人に強要する

最近の電車広告は「婚活」「転職」「脱毛」「本」が多いです。やんわりと勧められていますが、毎日見ていると記憶に残ります。ある人がこのように言っていました、「電車に乗ると『婚活しろ』『転職しろ』『毛を剃れ』『本を読め』と言われている」気がすると。言い得て妙だなと思いました。

話は変わりますが、聖書の神さまが私たちに強要した教えはないと思います。もし、強要するのであれば、私たち人間を造った時に意志を持たせなかったと思います。ロボットのように全て神のいうことを聞くように設計をすることも出来たはずです。しかし、そうではなく自由に選べるようにしてくれました。私たちには、神を信じる自由があり、神を信じない自由があります。

旧約聖書を読んでみると、神とイスラエルの民とは相互の同意に基づく約束を交わしています。約束を破りまくったイスラエルの民がたびたび神の怒りをかって罰を受けることが書かれています。

新約聖書の時代は、神を愛し、隣人を愛しなさいという教えをベースに「互いに愛し合うこと」を勧めています。愛することの勧めは、愛することを実践するからこそ出来るものだと思います。

一方で私たちは、自分が思っていることを相手に強要してしまうことがあります。かくいう私も長らくそんな性格でした。自分の考えの正しさを主張していました。今でこそ、少しずつ減ってきたと思いますが。特に教会に通って働いていた時は顕著でした。信仰生活のイロハを教え続けていました。

もちろん、私自身もそのように教わってきました。日曜礼拝を守るべき、お酒を飲んではいけない、恋愛をしてはいけない、他宗教の文化にもなるべく近づかないようになど。色々とありました。しかし、今考えてみるとこのような教えは、神様でもしなかったことだと思います。

強要されることを好む人はほとんどいません。私たちはどんな意見を持つのも自由ですが、自分の考えを絶対的に正しいと思い、その考えを押し付けてられた時に不愉快さを感じます。

伝道と呼ばれる布教活動もそうなのかもしれません。自分の信じる者が一番すばらしいと思うのは大切です。しかし、それを相手に押し付けることと紹介することは異なります。丁寧に伝えていく努力がこれからも必要だと思っています。

聖書を読んでも信じることを強要した箇所はどこにも出てきません。イエスさまの素晴らしさを語り続けた弟子たちがいただけです。その伝え方もいつも生き方が先立っていました。イエスさまも生き方と行動が先立っていました。

これからも、愛することを選び続ける日々でありたいと思います。