牧仕ブログ

教育とは本来の自分を生きるためのもの

本来の自分を生きることを妨げるものがあります。それは、何かよくわからないものへの「恐れ」です。みんなと違うことを恐れてしまったり、人の目を恐れてしまったり、知らないものを恐れたりします。

「恐れているものはありますか?」と問われた時にわたしの目が覚めました。恐れてるものはたくさんありました。

こんなことを言ったら人にどう思われるのだろうか。こんなことをしたらどんなことを言われるのだろうか。こんな生き方をしたら経済的にはどうなるのだろうか。自分の人生であるにも関わらず、周りの承認がないと踏み出せない自分がいました。

でも、周りの目を気にする以上に窮屈すぎる日常がもっと苦しく感じました。家庭教育、学校教育、教会での教育、それらが教えているものは、本来の自分を生きることではなかった気がします。自分が喜ぶ生き方ではなく、周りの人が少し喜ぶ生き方ではなかっただろうか。私自身はそんなことを思ってしまいました。

もっといえば、大好きなイエスさまが望む自分を生きられないことを苦しく感じました。

聖書ではこのように書いてあります。

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
エフェソの信徒への手紙2章10節

そうです。わたしたちは神さまの作品です。それぞれが神さま唯一のオリジナル作品です。

教育の意味は、神さまが作った本来の姿を生きるようになることだと思います。しかし、皆が同じように生きようすると現代の教育はどこか息苦しく感じます。それは、本来の自分の姿とかけ離れた姿を強制されるからです。

みんな違ってみんないい。なぜなら、もともと異なる姿で造られたからです。わたしたちはそれぞれにステキな違いがあります。それぞれにステキな役割があります。

誰かに似た生き方ではなく、◯◯らしい生き方でもなく、自分らしく生きることが大切ではないでしょうか。

わたしが願うのはただ一つです。言葉でもなく、行いでもなく、自分のこの生き方を通して告白していきたいです。イエスさま大好きと。

このことを書きながらわたしの原点を思い出しました。それは、「イエスさまに愛されていること」です。愛されているから愛したいと思います。とてもシンプルなことでした。