牧仕ブログ

「牧仕」という肩書きへのちょっとしたこだわり

日本のプロテスタント教会では「牧師」という漢字をあてて使っています。しかし、私は「牧師」ではなく「牧仕」をあえて使っています。ここにはちょっとしたこだわりがあります。

そもそも私が個人的に「先生」と呼ばれることが好きではありません。どこか、上下関係が出来てしまうような気がするからです。生き方や在り方としても、誰かの先生になりたいのではなく、友だちのようにフラットな関係を築きたいと思っています。敬称もなく親しみを込めて「ともみん」と呼んでくれることが嬉しいです。

以前、会いに行く活動の中で出会った人に言われたことがあります。「友だちのように接することが出来る牧師に初めて会いました」と。これからも先生ではなく友であり続けたいと思います。

そういえば、聖書でもイエスさまは「先生と呼ばれてはならない」と言っています。自分の思いを後押ししてくれる教えを聖書からも見つけることが出来ました。

だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 
マタイによる福音書 23章8節

『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
マタイによる福音書 23章10-11節

わたしはイエスさまを生涯の師として仰いで歩んでいきたいと願っています。

ちょっとしたこだわりがあるもう一つの理由は、イエスさまが「仕える」生き方そのものだったからです。偉くなり誰かを教え諭す立場を持つのではなく、徹底して仕えることがイエスさまの生き方でした。

「牧仕」の「仕」は「仕える」という言葉です。模範とするイエスさまの生き方そのものがここに込められています。イエスさまは出会った人のために、自分の人生も命も投げ出し、時間も心も出会う人に尽くして仕えました。そんな生き方をしたイエスさまに倣いたいのです。

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
マルコによる福音書 10章43-45節

イエスさまは奇跡の力で人を癒しました。お腹が空いた人がいれば、これまた奇跡の力で満腹に食べさせました。怪我をした人がいれば治すこともしました。しかし、ただの一度も自分のために奇跡の力を使いませんでした。徹底して自分以外の他者のために生き続けました。

このように自分以外の誰かのために生きることを愛というのだと思います。

私も、少しでも大好きなイエスさまのように生きれたらいいなと思っています。

ちなみに「牧仕」と書くと間違っていませんかと訂正してくれる方がたまにいます。丁寧に答えることで、会話が広がっていくこともあるのでありがたがっています。