教会は教える会と書きます。聖書を通して神を信じる生き方を教えるところと意味をつけることもできます。しかし、牧師という肩書を持つようになって、少しまた少しと時間が経つ中で、教えるということをしなくなりました。
というのは、私が牧師となったのは20代でした。自分よりも年下の人もいましたが、出会う人の多くは年上の方でした。そのような方に先生と呼ばれながら、教えるというのおこがましいと感じていました。
しかもイエスは先生と呼ばれてはならないと言っています。会いに行く教会を始める時に「仕える」という漢字をあてて牧仕としました。また、現代に求められている価値観も教えることではなくなってきた感じがします。
聖書を教えて欲しいと言ってくださる方がたまにいます。でも意外と少ないです。実は、聖書を知りたくて連絡を下さる方は少ないです。情報がネットに増えたからだと思います。
私が大切にしているスタンスは「シェアする」です。この話が面白かったから聞いてよとか、聖書に書いてあったことを実践してみたらこんな良いことがあったよとか、です。良かったものを分け合うということです。
シェアするは共有するとか分け合うという意味があります。ルームシェアとかで使いますし、食べ物を分け合って食べることもそうだと思います。聖書の話もシェアするのが良いのだと思います。
教えて欲しいという方に対しては、では一緒に読みましょうということで、一緒に読むことをします。マタイによる福音書を順番に読んで、感想を言って、知識として補足したら面白いところはしてという感じです。
聖書の捉え方は、日々変わってきます。なので、いま自分が読んで感じたことを大切にするのが良いと思います。また、そんな話が聞きたいとも思っています。
なので、私が開催する集まりは聖書を一方的に教える機会をあまり作っていません。互いにシェアするということをやっています。私も他の人からシェアしてもらうのが楽しみになっています。
そう考えると、誰とシェアをしたいのかが大切になってきます。そして、その場所には居心地が良いことも必要です。否定されない、裁かれないそんな場所だと話しやすいと思っています。
イエスも弟子たちと旅をしながら、天の国のことや神についてシェアしてくれたのだと思います。日々誰かとイエスという方をシェアできたら嬉しいです。