聖書はイエスが神であること、神が人を救ったことなどが、神と人がおりなす話として書かれています。人は根源的に救いを求めていると思います。その救いに対して応えてくれています。信じる者は救われるという一節に全てが込められています。
そして、信じた者がどのように生きたらよいのかについて教えてくれています。
世の中は理不尽だと思います。神は理不尽を願った通りに取り除いてくれるわけではなく、理不尽の中で愛を持ち最善を尽くす生き方を見せてくれました。
最近、聖書を読めば読むほど感じることは、聖書は生きる知恵に満ちているということです。神を愛し、人を愛するというシンプルな教えではありますが、その生き方は豊かさそのものだと思います。
もちろん、愛することは簡単ではありません。でも、愛することを選ぶときに私たちは不自由さと共に豊かさを得ます。
愛を選ぶことは、自分の時間、心、お金などを自分以外の誰かのために使うことです。不自由です。めんどくさいと思うこともあります。でも、それらを振り払って一歩踏み出すときに、不思議な豊かさを受けます。
私は聖書がなければ、常に価値基準がゆれていたと思います。お金を稼ぐこと、成功することがほめられる世の中で、それを追っていたかもしれません。美味しい話があれば飛びついていたかもしれません。その結果、誰かにだまされることもあれば、人をだますことをしていたかもしれません。イエスさまを信じて以来、そのようなことに魅力を感じなかったことは、自分にとってよかったです。
とはいえ、出会いの中で愛することがこんなにも難しいのかと思うことがよくあります。先日も、絶対に解決できないような悩みを抱えた人の話を聞きました。どうしたらいいのだろうかと途方に暮れました。「イエスさまならどうしたのか」を考えながら祈りました。どうにかして、寄り添うことを選びたいと思いました。聖書を知らなければ、静かにその人から離れた気がします。
私にとって聖書は生きるために必要なものです。愛の指針をいつもしめしてくれます。