イエスは、神でありながら人としてこの地上に来られました。母マリアは処女のまま聖霊によって身ごもり、ベツレヘムの馬小屋でイエスはお生まれになりました。生まれたばかりのイエス様は、普通の赤ん坊と同じように泣き、母に抱かれ、成長していかれたと思います。神でありながら、私たちと同じ人として生きられたのです。
成長されたイエスもまた、私たちと同じ人間の感覚を持っておられました。荒れ野で断食をされたときには空腹を覚えられ、舟の上では疲れて眠りに落ちられました。弟子たちと共に食卓を囲み、飲み食いされました。愛する人々の死や苦しみを前にしては涙を流されました。けれども、イエスと私たちの間には決定的な違いがあります。それは、イエスが罪を犯されなかったということです。私たちは弱さの中で罪を犯してしまいますが、イエスはどんな誘惑の中でも神への従順を守り抜かれました。
ヘブライ人への手紙4章15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と記されています。イエスは、私たちと同じ苦しみを経験されたゆえに、私たちの痛みや悩みに深く同情し、理解してくださる方です。
その生き方は人々から様々に評価されました。「預言者だ」「神の子だ」と信じる人もいれば、「神を冒涜する者だ」「サタンの力で奇跡を行っている」と非難する人々もいました。それでもイエス様は常に父なる神に従って歩まれました。
イエスは徹底して自分のためではなく、他者のために生きられました。空腹の群衆にパンと魚を分け与え、目の見えない人に目を開かせ、重い皮膚病や足の不自由な人を癒し、悪霊に苦しめられている人を解放されました。孤独な人や疎外された人にも声をかけ、貧しい者に寄り添い、罪人とされた人たちを迎え入れられました。イエスは自分の心も時間も力も、すべて人々の救いのために注がれました。自分の富や名誉を求めず、常に他者のために歩まれたのです。
弟子たちと共に貧しい旅を続け、日々癒し、励まし、教え、共に食卓を囲まれました。最後の晩も、弟子たちと食事をともにし、パンを裂き、杯を分け与えながら、自らの死を予告されました。そしてついに、冤罪によって死刑宣告を受けられます。最も近い弟子の一人ユダに裏切られ、ユダヤの最高法院で裁かれ、ローマ総督ピラトに引き渡されました。ピラトは罪を見出せませんでしたが、群衆の圧力に屈し、イエスに死刑を言い渡しました。鞭打たれ、十字架を背負わされ、腕と足に釘が打ち込まれ、最も残酷で屈辱的な十字架刑で命を落とされます。
けれども、これは単なる悲劇ではありません。ここに救いの核心があります。十字架の死は、イエスご自身の罪のためではなく、すべての人の罪のための贖いでした。死は罪の結果です。しかし、罪なき方が死を受け入れることで、すべての人の罪の赦しが可能となりました。
洗礼は、この十字架の出来事に結びつくものです。水に浸されるとき、私たちの古い人、罪の支配にある私たちはイエスと共に死にます。そして水から上がるとき、イエスの復活と共に新しい命を受け取るのです。復活の日、イエスは死に打ち勝たれました。墓は空でした。復活のイエスは弟子たちに姿を現し、彼らの疑いや恐れを取り去り、希望と使命を与えられました。そして天に昇り、今も生きておられます。
イエスは、遠く離れた存在ではありません。私が弱さや苦しみの中にあるとき、その痛みを知り、涙を流してくださるお方です。自分ではどうすることもできない罪の問題を、十字架によって解決してくださった救い主です。「あなたは大切だ」と語りかけ、愛してくださる方です。孤独な時、悲しみの時、希望を失いかけた時、イエスはいつもそばにいてくださいます。
だからこそ、私は確信します。人生の悩みも、罪の重荷も、将来の不安も、すべてを超えて、イエスこそが人生の答えです。救いの希望、癒しの力、揺るがぬ愛――それらすべてがイエスのうちにあります。私はこのイエスを信じ、愛し、従って生きていきたいと心から願います。