牧仕ブログ

人生を実らせる心の整え方

「4つの土地のたとえ」に登場する「土地」とは、人の心の状態を表しているとイエス様は語られました。道端、石だらけ、いばら、良い土地。それぞれに蒔かれた種は、芽を出したり、枯れてしまったり、実を結んだりします。けれど、このたとえの本当のメッセージは、「人の心は変わらない土地」ではない、ということです。

疲れているとき、人の言葉や神の言葉を受け止める余裕がなく、道端のように硬く閉ざされることがあります。忙しさに心を奪われると、いばらが生い茂るように、思い煩いや欲望で御言葉が見えなくなることもあります。一瞬の感動で受け入れても、根が張らずに信仰が枯れてしまう、石だらけのようなときもあるでしょう。

けれど、だからこそ私たちは問うのです。「今日の私はどんな土地だろうか」と。その問いと祈りが、御言葉を受け取る準備となり、心の畑を耕す第一歩になります。

そして、たとえどんな土地であっても、イエス様はあきらめずに種をまかれます。普通の農夫なら、実りそうにない土地に種をまくことはしません。けれどイエス様は、道端にも、石だらけの土地にも、いばらにも、そして良い土地にも――すべての人の心に、今日も御言葉をまいてくださいます。

これは、神の愛が“非効率”で、“しつこいほどに粘り強い”ことを意味しています。誰ひとり見捨てず、どんな状態の心にも希望をもって向き合ってくださるのです。

このたとえを読むと、「良い土地にならなければ」と自分を責めたり、努力しなければと力んでしまいがちです。しかし、イエス様は「自分で良い土地になれ」とは言われていません。むしろ、良い土地となるためには、心を耕してくださる誰かが必要なのです。

聖書にはこう書かれています。

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36:26)

これは、神ご自身が固くなった心を柔らかくしてくださる、という約束です。

心の畑を耕すのは、イエス様の愛です。石を取り除くのも、いばらを抜き取るのも、私たちではなくイエス様です。そして私たちが思っている以上に、神は今日も静かに、優しく、そして力強く、私たちの心を耕してくださっています。

祈れない日も、信じる力が出ないと感じるときも、イエス様はあきらめず、心に手を入れ続けてくださいます。ただし、耕すという行為は、ときに痛みを伴います。思い込みが砕かれたり、執着や依存が引きはがされたり、心の奥深くまで掘り返されるような経験もあります。でもそれは、私たちを責めるためではなく、実を結ぶための愛の手入れなのです。

良い土地とは、完璧な人の心ではありません。打ち砕かれ、涙を流し、自分ではどうしようもないと気づいたとき、神は近づき、静かに語りかけてくださいます。「さあ、ここに種をまこう」と。

今、自分の心が道端のように感じられても、石だらけで根が張れないと感じても、いばらに覆われていると思えても、それは「耕されている途中」であるのかもしれません。神はあなたを見捨てておられません。

また、このたとえは、御言葉を語る人への励ましにもなります。家族に信仰を語っても無関心に見えるとき、SNSでシェアしても反応がないとき、それでもあなたの蒔いた御言葉の種は、見えないところで根を伸ばしているかもしれません。詩篇にはこう記されています。

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」(詩篇126:5-6)

心が良い土地になるには、時が必要なこともあります。涙と祈りが、土を耕す肥料となるのです。

現代のSNSの世界では、御言葉が一瞬で広がる可能性がある反面、すぐに忘れられたり、他の刺激に埋もれてしまうこともあります。でも、それでも届く人がいます。本当に受け取る「良い土地」の人が、確かにいるのです。自分の投稿が、誰かが聖書やイエス様に触れるきっかけになるかもしれません。何気ない一言が、誰かの心を動かす芽となることもあるのです。

このたとえは、私たちに静かな問いを投げかけます。私は今、どんな土地なのだろうか。神は今日、私にどんな種をまこうとしておられるのか。

たとえ今は実が見えなくても、神は必ずわたしの心を耕し続けてくださいます。やがて30倍、60倍、100倍の実を結ぶ者とされるのだと信じています。