牧仕ブログ

赦せない人がいることで苦しむ人へ

自分に酷いことをした人をどうしても赦すことができない。
いつも自分の心が怒りにとらわれている。
そんな風に人を憎んで赦せない自分も嫌でしょうがない。

これは、私がうつ病の時に自分の心を支配していた心情です。

 

自分はこんなに苦しんでいるのに、私をこんな風にしたあの人はノウノウと日常を生きている。同じように苦しめとまでは言わないが、責任をとってやめるべきだ。などと、心の中で悪態をつきながらのたうち回っていました。

 

今は、それらの怒りや復讐心を手放すことができ、平穏な心で日常を過ごすことが出来ています。

 

聖書では、「赦しなさい」ということが何回も書かれています。でも、簡単に赦せないからこそ悩みました。なぜ、私があの人を赦さなくてはいけないのだろうか。あの人は謝りもしなければ、自分が悪いことをしているとも思っていないではないか。と、また心の中で悪態をついてのたうち回りました。

 

一番嫌だったことは、このような想いに自分が支配されていることでした。このようなドス黒い感情を切り離したいと思うようになりました。

 

あの人のことに心を使うことも思い出すこともしたくない。無駄な時間を過ごしたくないと思った時に、「赦す」という言葉の意味がわかった気がしました。

 

「赦す」というのは自分のためなのかもしれない。

 

 

復讐したい、正当な罰を受けてほしいと願っていた相手への執着を手放すことなんだと思うようになりました。

 

私にとっては、「赦す」ということは、自分の心に刺さっている大きなトゲを抜くようなものでした。痛みを伴うものでありながらも、抜けてしまえばスッキリとしました。

 

また、私にとって「赦す」ということは、相手と再び仲良くすることではありませんでした。自分のためなのです。そこに相手は関係ありませんでした。憎しみを相手に持つことをやめる。その分、大切な人に心を使うことができるようになりました。

 

それ以来、聖書が教える「赦しなさい」という意味は、悪を行った相手のためではなく、自分の心を守るために書いてあると感じられるようになりました。

 

 

そんなことを言っても、自分の感情が怒りに支配されている時は冷静になることは簡単ではありません

 

 

そんな時は、誰かに話を聞いてもらうことで怒りの感情を手放すことができます。私も話を聞きますので、必要な時は連絡してください。

 

「赦す」ということに、もう一つ付け加えるならば、それはやり返さなさいということです。

 

以前、私について事実無根の嘘をばら撒き誹謗中傷をする人がいました。内容が突飛すぎるので誰も反応しませんでした。私も反応せず、そっと全ての連絡先をブロックしました。その後、だいぶ時が経って、本人から謝罪を受けました。

 

その時の私は、「あの当時、やり返さなくてよかった」とホッと安心したのを覚えています。その経験から、私はどんなに攻撃をされても悪に悪を返さない生き方をしたいと思うようになりました。

 

むしろ、静かにそのような人から距離をおこうと思います。仲良くは出来ないけど、攻撃もしない。

できれば、その人の祝福のために祈りたいとも思います。