聖書の教えが自分を縛っていると思っていたことがあります。日曜は教会の礼拝に行かなければならない。クリスチャンだから良い生き方をしなければならない。クリスチャンだから相手を赦さなければならないの、いや赦せない。など、数えればキリがありません。
聖書の教えが自分を縛っていたと思っていました。しかし、そうではなく自分の考えが自分を縛っていました。「クリスチャンだから」として、自分の行動を制限していたのは自分でした。
私たちは何かカタチになることをしていると安心します。以前の私はクリスチャンとして、教会に行くこと、礼拝会に行くこと、献金をすること、奉仕をすることなど形あるものをすることで安心していたと思います。しかし、一方で辛さも感じていました。
同じように悩める子羊もといクリスチャンからの相談は後を断ちません。少しでも、楽になって欲しいと思って話を聞き、必要であれば考えを解きほぐす手伝いをします。話を聞けば聞くほど感じるのは、信仰がその人を縛るのではなく、その人の考え方がその人を縛っています。
そして多くの場合、人から聞いた聖書の教えがその人の考えを縛っています。あの人がいうことなのだからと記憶に強く残るのです。本来は自由でありながらも自分のことを縛ってしまうことが誰でもあります。
私の活動上、教会組織に属さないクリスチャンとの出会いがたくさんあります。連絡をくださった人は何百人といます。皆が口を揃えるかのように「いちおうクリチスャンなのです…」と控えめな声で話してくれます。「いちおう」というのは「教会組織に属していません」「日曜の礼拝に行っていません」と言った意味を含んでいます。
信じることが喜びであったはずなのに、自分の考えが自分を縛って悩み苦しんでいる人がたくさんいるのです。悩みが解消し、喜んで生きて欲しいと願わずにはいられません。
逆に相手を自分の考えで縛ってしまうこともあります。結果として仲違いをし、相手を傷つけてしまうことがあります。本当に向き合うべきは自分の心だといつも思わされます。
私たちは誰もが自由です。
聖書の教えは「神と隣人を愛しなさい」です。義務や強制ではなく、自らそれを選ぶことを勧めています。私たちは誰もが自由です。愛することも、愛さないことも自由です。
クリスチャンとなり、イエスさまの愛に従いたいと思う時に、愛することを選ぶようになります。そして、愛するがゆえに「不自由」を感じることがあります。不自由を選び、自分をキリストの愛に縛り付けることを選ぶことができます。自らが選ぶ不自由さには喜びがあります。
イエス・キリストは神なる存在であるからこそ最も自由でしたが、人としてこの世に来られたことで誰もよりも不自由な生き方を選びました。私はその姿にとても感動します。
私の原動力はイエスキリストの愛です。いつも力をもらいます。いつも喜びをくれます。いつも励ましをくれます。
神は、その独り子をお与えになったほどに、
世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3章16節