先日、発達障害の講演会×当事者会なるものに参加をしてきました。
私自身は当事者というわけではない。ただ、発達障害を持っている方たちと出会う機会がたくさんあり、もっと知ることが出来たらいいなと思っていた。そんな時に友人のかずきさんがやっている講演会を見つけたので参加してきた。
参加した理由を改めていくつか書いてみる。
①もっと知りたい
②知らずに人を傷つけてしまわないように
③かずきさんと知り合えたから
①もっと知りたい
多くの方との出会いを重ねるごとに相手のことを知ろうとすることは最低限の礼儀ではないかなと思っている。
私自身は発達障害についてほとんど知らずに今まで過ごしていました。どんな特性を持っており、どんな違いを感じているのか。当事者の方たちがいう「生きづらさ」とは何かを知っていきたいと思った。
②知らずに人を傷つけてしまわないように
当事者の方たちは事実「生きづらさ」を抱えている。それは、当事者以外の人が「知らない」ということで引き起こしているということも話を聞きながらわかってきた。
ならば、私自身が知ることで、接し方を変えることができるんじゃないか。少なくとも出会った人と過ごすその時間は、その人に「生きづらさ」を感じることなく過ごしてもらえることはできないだろうか。
③かずきさんと知り合えたから
発達障害という言葉は「障害」という言葉がつくことでミスリードしている気がする。
かずきさんと出会って思うのは、めちゃくちゃ能力にあふれている人ということだ。しゃべるのも上手だし、知識もめちゃくちゃあるし、場を作るのも上手だし。
「障害」という言葉を吹き飛ばしてくれたのはかずきさんとの出会いだと言っても過言ではない。いい意味でどこが障害者なんだと思わせてくれた。
この出会いを本当に嬉しく思う。
かずきさんありがとう。
参加して考えたこと
今回の講演会のテーマは「居場所」だった。
詰まるところ、自分が居心地がいい場所を探したり作ったりすることの大切さを教えてくれた。誰が聞いてもいいセミナーだと思った。
改めてこの会に飛び込んでみてよかった。
「知る」ということを通して寄り添うということができるのかもしれないと思わされた。
私たちは皆、それぞれに何かが欠けている。
認め合い、尊重し合い、また自分の得意なことで相手の欠けを補い合えたらいいな。
自分が持っている欠けは誰かによって補われるための「愛の空白」として与えられた。そんな風に考えてもいいだろうか。
そんな「愛の空白」を通して「補い愛」が生まれるような生き方をしたい。
クリスチャンと発達障害について
最後に、
私が教会で働いていた時も発達障害を持っている方がいたはずだ。もしかしたら居心地が悪かった人もいるかもしれないと今だからこそ過去を振り返りながら思う。
自分から言ってくれた人がいた。
「同じ場所に1時間以上座っているのが難しいので、礼拝参加がしたくてもできません。」
当時、この言葉を理解することも受け止めることも出来なかった自分がいた。
この活動を始めてから、クリスチャンであり発達障害を持っている方から連絡をいただくことがしばしばある。「教会で理解されない辛さ」ということを話してくれる。
「知らない」ということで傷つけていたことを終えたい。「知る」ことを通して新たな一歩進むことをしたい。だからこそ学び続けたいのだ。
ぜひ興味ある方はかずきさんのYouTubeをご覧になってください。