「正義中毒 人ななぜ、他人を許せないのか?」という本を読みました。脳科学者の方が書いた本なのですが、大変面白かったです。有名人が何かの失敗のたびにめちゃくちゃ叩かれる現象とかもこの正義中毒があるからなのかなと思いました。最近は有名人でなくても、ちょっとした失敗や過ちであったとしてもネット上でリンチのように叩かれる風潮があるように感じます。
自分の正しさや考えが、他の人を裁いて攻撃することに使いたくなってしまう人の愚かさというものが私にもあります。時々、聖書の言葉をそのように使ってしまう自分を恥じて反省しています。グッと堪えながら、相手の話に耳を傾けることに集中します。
誰もが正しく生きれないからこそ、悩み、苦しみます。また、本当は赦され、愛されたいと思っています。
意外かもしれませんが、イエスキリストは愛については多くを語っていません。実は、イエスさまの愛について語りまくったのは弟子たちです。「神は愛なり」もイエスさまの弟子の言葉です。それこそ、イエスさまは愛を語った人ではなく、愛を生きた人です。
人は人を愛し、愛されるために生きているのだと思います。決して、裁いたり、攻撃したりするために生きているのではありません。
私は、クリスチャンとなり、牧師となり、牧仕となる中で、「聖書の言葉を語ること」こそが最高のアイデンティティだと思っていました。そう言われていたので…。語ることを求めると、どうしても正しさが先行してしまいます。また、愛は言葉で語るほど陳腐に聞こえてしまう気がしました。
しかし、私の考えが少しずつ変わってきました。
私は言葉で語ることではなく生きることを通して、神様の愛を語りたいと思うようになりました。
それこそ誰かが願う自分を生きる必要はないと気づきました。大切なことは、自分が心から喜べる生き方を選ぶことです。神さまが願う自分を生きることを求めつつ。
私自身が聖書に励まされたからこそ、出会う人を励ます生き方をしていきたいのです。