ちょっとだけ忙しさに心を奪われた時に考えてみました。私はどんなことに時間を使って日々を過ごしているのだろうか。自分が喜びや幸せを感じることにちゃんと時間を使っているだろうか、と。
なぜなら、時間とは命そのものだからです。
聖書を読むとイエス・キリストが無償の愛で人々のために生きたことがよく分かります。自分の時間のほぼ全てを自分以外の人のために使いました。奇跡の力で多くの人を癒したり、お腹いっぱい食べさせたりしました。
しかし、一度として自分のためにその力を使いませんでした。全て自分以外の誰かのために使いました。最終的には自分の命を身代わりとして、全人類の罪を贖いました。
時間はその人の命そのものです。
もし、私のために時間を使ってくれる人がいたら、それは当たり前のことではありません。もし、私のためにお金を使ってくれる人がいたら、それは当たり前のことではありません。もし、私のために心を砕いてくれる人がいたら、それは当たり前のことではありません。
これらは、私のために命を使ってくれることなのです。
自分の命の尊さを強く感じたのは自分が愛されていると思えた時でした。私はある時からイエス・キリストを信じクリスチャンとなりました。
自分のために十字架にかかって死んでくださった神がいることを信じました。神が命を投げ出してまで救おうとしてくれたのが自分の命。喜びが少しまた少しと湧き上がってきました。それと同時に、自分の命の価値を知りました。
自分のために命を使ってくれる人がいることは当たり前のことではありません。
命を誰かのために使えることを愛というのであれば、自分もそう生きたいと願います。そんな生き方に見返りを求めないものを神の愛と呼ぶのだと思います。