牧仕ブログ

普通を理解する力が必要だと分かった

普通というのは「人生の中で出会ってきた人の平均値」なのだと思います。そこから、自分はどっちにどれくらいズレているのかで自分を説明しようとします。

自分が接してきた環境が今の自分を作ったり、自分の感覚や感性を作っているのだと思います。身近に接する5人の人が自分に大きく影響を及ぼしているという話を聞いてなるほどと思いました。

自分がいる環境によって、自分の思考は染まっていきます。自分が思っている以上に、自分は周りの影響を受けているということです。自分で意思決定したつもりでも、その時の環境に影響を受けているのです。

「普通」を理解する力は世の中の共感を得るために必要なことだと思います。普通を忘れた人が都内の電車賃の初乗りを「800円」とか言ったりします。ズレすぎて笑ってしまいます。

世の中の共感を得るためには普通を理解することが必要です。ただ、自分の感覚も当てにならないと書きました。自分の普通が一度崩れ去ると普通を理解する力が得られるのではと思っています。なので、普通が壊れる体験をすることが重要です。

私は大学一年生の時から約10年をキリスト教会で過ごしました。私は自分のことを常識人で普通の人だと思っていました。ところが、いざ教会を離れてみると税金や保険のことは知らないし、SNSも知らないし、テレビの話も音楽もわからない状態でした。人の痛みや苦しみも理解することは出来ませんでした。

この10年と異なる生き方をし始めたことで、自分の普通が崩れ始めました。比較的、自分は正しいと思って生きてきたのですが、それも崩れ去りました。これは私にとって本当によかったです。

聖書を読むと、イエスさまの弟子たちはイエスさまと出会い劇的に人生が変わります。新しい世界でイエスさまと冒険のような日々が続きます。しかし、イエスさまの十字架の死によってまた以前のような日常に戻ります。イエスさまと一緒にいた弟子の一人は「雷の子」と呼ばれ、怒りっぽい性格でした。イエスさまと一緒にいるときは気も大きくなっていたと思います。

本当に弟子たちが変わったのは、復活したイエスさまに出会ったあとだと思います。イエスさまがいなくなった後に、その背中を追いかけ始め、イエスさまの愛の生き方を真似し始めたのだと言えます。

私は教会で牧師として働いている時よりも、今の方が「普通を理解する力」が増大した気がします。接する人が増えたことで、自分の世界が広がったからだと思います。この活動をしていく上で普通を理解する力は不可欠なのかもしれません。

先日、ある方が連絡をくれました。生後間も無くの子がいる母親でした。その大変さは以前の私では理解することは全く出来なかったと思います。しかし、子育てをする母親の気持ちに寄り添い、励ますことができるようになったのは自分の中では奇跡だと思います。